ルーツ探索 
     
   1 父方の先祖
 
 吉本家は、広島県北広島町(安芸国西宗村)出身。 
 吉川氏の所領。姓に「吉」の字を冠す数家あるとの事。
 吉本家は、文化文政時代に吉原家から分家。
 吉本家本家の長男は、戦後早死したため、次男が家督相続し、本家次男と私の父が西宗の水田にあった 先祖の墓を千代田町蔵迫の勝龍寺の墓地に移設した。先祖の菩提寺は、北広島町大朝の円立寺である。

  西宗については旧家に江戸期の資料が数多く残されているようである。また、西宗村には「たたら」の跡があちらこちらに残っているそうである。下記URLのブログ参照。
  http://plaza.rakuten.co.jp/katsu0927/diaryall
 上記ブログの筆者が解読を終えた古文書は以下のとおり。

1)山縣郡西宗村「国郡志下しらべ書き出し帳」
 文政2年(1819年)に、広島藩は国郡志編修「芸藩通志」を編纂刊行した。その際、西宗村庄屋・與右衛門、文政2年卯3月に提出した資料であり、西宗村の地勢、気候、産業、物産、祠堂、風俗、戸口等々が記載されている。

2)山縣郡西宗村「家人牛馬御改帖」
 当時の村の各戸主の苗字或は屋号と名前、建屋の状態、その家の年貢の基準となる石高、家族の年齢と名前、牛馬の数が記載されている。
 享保11年より、幕府の命令で、子の年と午の年の6年ごとに、全国で人馬改めが行なわれ、明治初頭まで続いた。旧家に、(庄屋 乙右衛門)「子午の人馬改帖」元文3年(1738年)〜明治3年(1870年)の20冊が遺っている。これによって130年間の西宗村の人口の推移が6年間隔で男女別に知ることができる。又、歴代の庄屋の名前を知ることもできる。この人馬改帖には、各家の筆頭者の身分とその家族数が男女別に集計され、前の調査との増減が書かれている。又、雌馬の数も記されている。

3)山県郡西宗村「宗旨御改帖」
 当時の西宗村の老若男女すべての村人が、どこの旦那寺に帰依しているかを一家ごとに書き記したもの。苗字か屋号ごとに家族全員が列記され、結婚した女性以外はすべて名前が書かれている。時期毎の名前の比較で、名前の流行廃りもわかる。

4)山縣郡阿坂村「国郡志下しらべ書き出し帳」
 西宗村と同様の内容であるが、異常気象の記録も記載されている。

5)西宗八幡宮「三十六歌仙の絵馬」の歌人と和歌
 この内容は、ブログでは記載されていない。
 残念ながら、楽天ブログ「やまざと日記」は2008年5月で記載が停止している。

 戸籍では文化文政時代に生まれた先祖の氏名までわかるが、地域状況が不明なので、この広島県山県郡西宗村の資料紹介ブログの要旨を以下に紹介しておく。
   
  <広島県山県郡西宗村>
   
 
<概況>


・村の広さは東西33町50間、南北13町40間(現在とほぼ同じ)
・「東南北之三方山高屹西は中原村続、平地之惣て土地高く郷中平にして水田多く、川頭故水少く大寒所にて麦作不実、稲作斗りの村柄に御座候」と水田は多いが水が少なく大変寒いところで麦作には向かず、稲作主体の山村であると述べている。
・「冬分は雪多く降り十月始より三月中旬迄も残雪有之、大雪と申年には四、五尺も降り積」と冬季には雪に閉ざされる村で、大雪の時は、今の四、五倍の積雪になったようである。
・「春秋冬三季農業便利悪敷」と厳しい気候環境にあり、農業にとって決してる便利の良い所ではないと報告している。
・「乍併山中故牛馬飼草などは沢山成る方、然れども寒強故木草建方遅く春之内秣不自由にて難儀仕候」と、山の中なので牛馬を飼うための草は沢山とれるが、雪どけが遅いために内は秣に不自由していたと書いている。
・「村居は中の下業前は農一途の村柄て御座候」
 資料:文政2年(1819年)卯3月「国郡志御用に付き下志らべ書出帳」
 
 <人口・世帯数>


1)享保5年(1720年)「山県郡西宗村家人牛馬御改帖」
 人口365人、男177人、本百姓56人、親類懸り人120人、下人1人。女188人
 家数120軒、内本家56軒、小家34軒(部屋・借家・下人家)、社2軒(本社・拝殿)
 牛馬屋28軒
 牛馬59疋、牛29疋、馬30疋

2)元文3年(1738年)「山県郡西宗村人馬御改帖」午ノ正月、控
 人口342人、享保17年(1732年)子ノ御改から43人欠り
 男168人、百姓73人、内1人浮世過(小作人)、懸り人下人共94人(男の家族)
 女174人、但女房懸り人下女共(妻と女の家族)
 雌馬20匹、享保17年(1732年)子ノ御改から10匹欠り

3)文政2年(1819年)卯3月、「国郡志御用に付き下志らべ書出帳」
 人口370人。男192人、女178人。百姓97人、懸り人273人
 家数199軒。百姓91軒、社倉蔵1軒、土蔵3軒、木小屋と灰屋52軒
 牛馬屋52軒
 牛馬77匹。牛57匹、雄牛52匹、雌牛5匹。馬20匹、雄馬1匹、雌馬19匹。

4)2006年現在
 人口は62世帯154人で、過疎と高齢化の進む山村となっている。

注:馬は雌馬が多く農耕用ではなく販売用だったと言える。名馬摺墨の伝説が残っているように、古くから馬の産地であった事が裏付けられる。
 享保5年(1720年)当初、筆頭者は本百姓ならびに小作人とその家族・関係者だったが弘化3年(1846年)に家長の職業に職人としるされた者が2人現れている。職種は不明だが農業ではなくて生計を立てる人が出てきている。

<年齢別性別人口構成>

 資料:享保5年(1720年)「山県郡西宗村家人牛馬御改帖」
                男     女    計   %
   10歳未満       35    41   76   20.8
   10歳から19歳    37    35   72   19.7
   20歳から29歳    25    25   50   13.7
   30歳から39歳    29    32   61   16.7
   40歳から49歳    16    18   34     9.3
   50歳から59歳    15    18   33     9.0
   60歳から69歳    15    13   28     7.7
   70歳から79歳     5     4    9     2.5
   80歳以上              2    2     0.5
   合計          177   188  365
 年齢構成は正にピラミッド型。80歳以上は女性のみ。最高齢は、道本忠右衛門さんの母親で85歳。この道本家は9人家族で、夫婦と母親男児が5人、女児が末っ子。住まい以外に、独立した牛馬屋があった。
 
 <名前>


1)享保5年(1720)当時の子供の頃の名前
・男子で同じ名前の者が3人以上いる名:市大郎(5人)、市介(5人)、大郎市(4人)、大郎介(3人)、三郎(3人)
・女子で同じ名前のものが4人以上いる名:なつ(8人)、さつ(7人)、はる(6人)、ひな(5人)、つね(4人)、はつ(4人)、くめ(4人)。(参考:「市」3人、「ふゆ」1人、「あき」0人、「ねね」1人)

2)享保5年(1720)と嘉永元年(1848)の比較
・120年もたつと同じ名前をさける傾向が強まったようで、男性で同じ名前の者は二人が上限だった。
・享保では源蔵といった「蔵」の付く名前の者は5人だったが、嘉永では35人となり、流行をうかがわせている(参考:享保5年の男子177人、嘉永元年の男子184人)
・女性5人以上の同名は、享保では「なつ・さつ・はる・ひな」だったが、嘉永では「はな」の1件で、4人が「りよ」、3人が「なつ・きく・はつ・とよ」となっていて、同名を避ける傾向が男性より強く出ている。

資料:享保5年(1720)「山県郡西宗村家人牛馬御改帖」
    嘉永元年(1848)「嘉永元年山県郡西宗村宗旨御改帖」
 
 <年貢>

・文政2年(1819年)卯3月「国郡志御用に付き下志らべ書出帳」では、西宗村の経済力は、「畝高 畝数31町5反2畝24歩」「高258石」「正保3年御地詰奉行」とあり、江戸初期の正保3年(1646)には、西宗村の年貢を決める生産高が258石と定められ、この石高が江戸期を通じて年貢の基準となっていた。

・寛永9年(1632年)9月3日広島藩の藩主浅野長晟(ながあきら)が死去し光晟(みつあきら)が後を継いだ時、異母兄の長治(ながはる)に三次を与え三次支藩5万石ができた。<これによる広島藩の石高の減少を補填する為、内検地を行い西宗を含む一部の村々の石高が増された。

・年貢は村請制で、村全体の年貢が定められ、村人全員が連帯責任を負って納めていた。戸別に石高は決められていたが、年毎の年貢を納められない家が出た時は、村としてそれを補充しなければならなかった。年貢の高は、土免と呼ばれ、作付け前に税率を決定し村に通知された。

・正保3年(1646年)の村の石高の3割と決定され、年々税率は上がり、明暦3年(1657年)には4割となっている。その後、宝暦9年(1759年)まで4割台で推移した。
 最も高い土免となったのは延宝7年(1679年)で、4割9分3厘七毛。
 最も低かったのは、享保17年(1732年)の8分。この年は、中国・九州地区にウンカが大発生し凶作となり、広島藩は農民救済の為に大減税を実施した。

・西宗村に通知された(西宗八幡宮に掛けてある)享保21年(1736年)の土免状(春に税率が定められ、村に通知される)では、高に付き4割3分5厘となっている。あて先は「庄屋九右衛門 長百姓共へ」。
 宝暦10年(1760年)から定免(毎年税率が同じ、年によって税率が変わらない定率の年貢)の4割4分5厘(44.5%)となり、書出帳が書かれた文政2年(1819)まで変わらなかったようである。
 資料:文政2年(1819年)卯3月「国郡志御用に付き下志らべ書出帳」
 
 <西宗の鳥獣>

1)鳥の類:雉子、山鳥、鳶、雁、鳩、雀、霍(鶴)、鶺鴒、鴫、目白、千鳥、鶯、山がら、鷹、こうもり、三光鳥
2)獣の類:鹿、兔、狸、狐、狼、猪、獺(かわうそ)、まみ(あまぐま)、鼬、貂、犬、猫

注:当時、熊は山奥に生息し西宗まで降りてこなかったが、最近では人家近くに出没するようになっているとの事
  資料:文政2年(1819年)卯3月「国郡志御用に付き下志らべ書出帳」
   
<異常気象の記録>


  延宝9年(1681年)大雪
  延宝14年(?)4月2日大霜にて諸事之もの破損す
  元禄11年(1698年)12月洪水
  元禄16年(1703年)4月拳石のごときなるおんしゃく(雹)降り麦打折る
  正徳3年(1713年)7月10日大風吹き立木倒れる
  正徳3年(1713年)9月13日積雪壱丈(約3m)余降る
  享保10年(1725年)11月29日より大雪明る3月20日まで積雪消えず
  資料:隣村「阿坂村」「国郡志御用の為の下調書出帳」
 
 <元旦風景>


 「年礼の式は長立候ものは袴にて旧家を始順々に年始一礼相述申すばかり、万歳の式は三が日に中原村□□共 旧例にて壽あい唱え申し候」
 資料:文政2年(1819年)卯3月「国郡志御用に付き下志らべ書出帳」
 風俗之事:正月元旦の西宗村の風習
   
<宗旨>

 
 嘉永元年(1848)当時の村人が帰依していた旦那寺は以下の通り。村人数は347人。
 大朝村・円立寺、寺原村・西光寺、今田村・法専寺、高宮郡中ノ村・品窮寺、有田村・道場(僧岱)、広島寺町・報専坊、広島寺町・徳応寺
 資料:嘉永元年(1848)「嘉永元年山県郡西宗村宗旨御改帖」
 
<旅人青駄送御書出写>

 
 江戸時代、西宗村を通りかかった旅人が病で動けなくなった時の対処方法:広島藩から遣わされた指示書(資料:庄屋吉右衛門書写「旅人青駄送御書出写」)

1)先ず村人は、村役人である庄屋か組頭に知らせ、村役人は見届た後、医者に見せて加療をすること。
2)生国・名前・年齢・病気の様子を尋ね、往来手形を確認すること。
3)旅人が住所へ帰りたいけどお金がないので送り届けて欲しいと言えば、その旨を書面に認めさせてた上、その訳を 詳細に送り状に書いて、順路へ送り出す事(送り状の書式も記述あり。書き落としてはならない条項の一つに所持品 の品々が上げている)。
4)最初に尋ねた時に、疑わしい事があったら代官所へ申し出て指図を受けなくてはならない。
5)死亡して、同行の者から死体を送り届けて欲しいと頼まれた場合、すぐに代官所へ注進して指図をうけること。
6)病人送り受取渡は、午前6時から午後4時の間にすること。
7)午後4時を過ぎたら送り出さずに村で一泊させること(領内での受渡は、午後7時頃までは良いと、弾力的な運用も認める記述もある)。
8)村人が送っていくのは隣村の継所までとなっている。

 病人を乗せて運ぶ用具が「青駄」と呼ばれていたようで、駕篭か担架の様な物だったと思われる。
注:「青駄」あおだは、青竹を割いて編んで周りに柵を作った頑丈な担架との事
資料:塩爺の讃岐遍路譚 其の三十四 「行き倒れの娘、無事帰る」
http://www.eitikai.co.jp/shiozi-34.html
 
<度々御触書見合之姿書改帖>


 隣の中原村庄屋で西宗村庄屋を兼務していた吉右衛門筆「度々御触書見合之姿書改帖」(明和4年(1767)から寛政4年(1792)):郡役所からの覚書や藩からの御触れを書き写し、1冊の帳面にしているもの。広島藩が領民の生活の細部にわたって口を出している様子が、この御触書によく現れている。

例1)領民の一揆を恐れた江戸幕府と諸藩が、飴(密訴に対する報償)と鞭(有無を言わせぬ罰則)で村人を管理しようとしている触書あり。。

例2)家督相続で争論が起きるのは当時も多かったらしく、そんな恐れのある者には、家督相続に関する遺言を書かせ、村役人が内容を確認し封印をした上、割庄屋が保管し、死後親類ども集めてその内容を伝え、争論の無いようにする事を指示しているものあり。

例3)家を新築する時は、今日でも届出が必要だが、当時は解体についても、その都度願い出るようにと、郡役所からの御触が出ている。

例4)百姓だけでなく、村役人(庄屋や組頭)に対しても目を光らせている。村役人が病気養生のために有馬温泉に行くことを許していたようだが、養生とは口実で、遊興の為に行っている者もいたらしく、安永7年(1778)に不許可の通達を出している。但し医師の診断書と割庄屋の願い書をつけて本人から願書が出たら許可することもあると述べている。

例5)枡の改めに、京都の福井家がやって来る事を知らせると同時に、対処の仕方を指示する触書:江戸時代、枡は京都の福井家が製作と販売管理の権限を持っており、勝手には何人も製作販売する事は出来なかった様である。その事が正しく守られているか、福井家は諸国に時々調査人を派遣しており、幕府はその調査が支障なく行われるよう、公儀御廻状で諸藩へ通達していた。その公儀からの通達を受けて、広島藩は各郡役所を通して村々へ、以下の内容で福井家の調査人へ答えるように触書を出している。
 「領内にある枡は、寛文8年より京枡を本形として寸法などいささかの相違も無いよう製作され、その枡ごとに役人が焼印をして国中に渡し使用してきており、この後も同じ様に通用する旨、公儀への届けを済ませている」と、質問された者は誰もが申し述べるよう村役人へ指示をしている。
   
<名馬摺墨の伝説>


・『豊平町の伝説と民話』の第一集に、宇治川の合戦の名馬「池月(いけづき)・摺墨(するすみ)」は、西宗村の四万津で出生したと書かれている。。
 文政2年(1819)の庄屋与右衛門『国郡志御用ニ付下調べ書出帳』には、「鎌倉将軍御治世の頃、秘蔵の名馬生透・摺墨の両馬の内摺墨は当村の四万津で出生」と認められ、この摺墨が「或時、龍頭山に野飼に放したら、山にある大きな石に飛び上がり、其の時、石の上に足跡がつき」それより「龍馬が天下ったと人々がこぞって語った」と述べている。
 そして、この摺墨が二歳になって市に売りに出されたら高値で買われ、その折、市場の近くの加茂明神の柏の大木に繋いでいたら、その木に名馬の徳が籠り、後々不思議な事が起こったそうである。それより後は、龍頭山の足跡のついた石は「龍足石」と名づけられ、「この石の下に清水あり、龍の水と言い伝えられた」と書き記している。
 妊娠した牝馬がこの水を呑むと、生まれた駒子は名馬となると言われ、そうした言い伝えから、今以て、西宗の馬子は割高で売られている。とも書いている。
 
 <西宗の八幡宮>

 文政2年(1819年)「国郡志御用ニ付下志らべ書出帳」の神祠の項の記述:
 八幡宮 御殿 拝殿 鳥居祭日毎年9月29日 京都吉田配下 社人後有田村 浮乗大隈正
 抑当社鎮座来由相知不申、祭礼之砌は先例社人前日より罷越、神事の用意取調、当日に至り奉捧御水神湯ヲ、惣氏子ハ社参礼拝仕、其余神楽等無御座候、尤豊饒の年相続候得者、社人舞神楽等仕る事も御座候

 西宗八幡宮に、神社の歴史を伝える幾つかの木札が残っている。八幡宮の創祀を記した棟札は現存していない。
 延享4年(1747年)の再建時の木札が、神社の再建の記録を書き残している。
・明応9年(1500年):宝殿再建
・天正18年(1590年)、寛永15年(1638年)、延享4年(1747年):再建修復
・文政2年(1819年):拝殿整備
・文政13年(1830年)の木札:この木札は、此年に何があったのか、何が行われたのか、何も書かれていない。本来、木札が作られるのは、何かの祭事を書き記すためと言える。それなのに、祭事の内容が書かれていない木札が作られている。以下はその理由に関わるできごとである:

1)天正15年の吉川氏書状と天正18年の西宗神社の再建
・天正15年(1587年)3月9日付けの吉川元長から、母に宛てた書状に「にしむね」の地名が出ている。内容は、西宗村を所領として贈る旨を、息子が母に伝えているもの。その3年後に西宗八幡宮の宝殿が再建されている。当時、この地方を領有していた吉川氏は、領地内の社寺に手厚い保護を行っており、吉川元晴の妻であり、元長の母である「よしのはらのおつぼね」が、自分の領地となった西宗神社に寄進をし、それが宝殿の再建に繋がったと推測できる。そして、その時に木札は作られたと思われるが、その10年後の関が原の戦の後、吉川氏が岩国に移封された直後に、その木札は処分されたと考えられ、天正18年(1591年)の木札は現存していない。

2)文政10年の吉川氏の墓所の大修復と文政13年の木札
・文政10年(1827年)に、この地区にある吉川氏墓所が大修復されている。その3年後の文政13年(1830年)に、何かの祭事も記されていない木札が西宗八幡宮に懸けられている。当時、山県郡は広島藩の領地であり、西宗村のような小村が、外様大名である岩国藩から寄進を受けても公には出来ず、再建修復も密やかに為されたのではないかと思われる。
 文政13年(1830年)の木札の内容:
 奉造立御宝殿明応9年庚申 文政13年庚寅年迄 奉再建寛永13年 331年成  丙子より195成 山県郡西宗村鎮守八幡宮 神主浮乗石見正藤原幸綱
 奉再建御宝殿天正18庚寅より241成 奉再建延享4丁卯より文政13年迄84年成