ルーツ探索 
     
   2 母方の先祖
   
   母方の末次家は、山口県周南市(徳山)出身。
  母方の私の祖父は、フィリピン・ルソン島アンティポロで終戦の1945年3月に戦死。
  末次家は、記録が多く、ルーツ探索が容易。遠戚に内務大臣、海軍大将の末次信正がいる。祖父の兄が門司で勤め、『人生五十年』を執筆しているので、日露戦争から昭和30年代までの歴史がわかる。
  先祖の墓には、明治の歌人、中山三屋の戸倉家の墓もあり、その資料もある。さらに先祖の墓には、江戸中期に医師だった原仲に関する墓誌があり、先祖が大内義隆に仕えて以来の経緯がわかる。
  以下は、そのうち二点の資料の紹介である。
   
  2−1 末次原仲墓碑銘
 
   
   墓誌の漢文の内容は、概ね以下の通りである。
 末次翁、諱(いみな)は、見(けん)、字(あざな)は文龍(ぶんりゅう)、一字(いつあざな)は原仲(げんちゅう)、自ら 富春(ふしゅん)と号す。
 周(周防すおう=山口県東部)の富田邑(むら)に生まれ、本姓は多々良、先世は州(防州)の山口に住むという琳聖太子(りんしょうたいし)七世の孫、大内正恒(まさつね)、始めて迺祖(しゃうそ)五左衛門なる者に末次氏を賜う。
 命じて工師と為す。子孫相承(あいう)け、末次某に至り、天文中、太守(大内)義隆(よしたか)の命を奉じ、富田(現 新南陽市富田町)に来たり、応神廟(おうじんびょう=八幡宮)を経営す。
 是の時に当たりて陶(すえ)氏、乱を作(さく)し、山口城を陥没す。大内氏遂に滅す。反命するところ無し、よって留まり富田に家す。農を以て業と為す。
 翁に至りて学を好む。業を医に変え、徳山長沼氏を師として事(つか)う。
 年十八、京師及東洋山脇(やまわき)先生の門に遊び学成りて帰り専ら古医方を唱える。術、大いに行(すす)む。
 善甫(ぜんぽ)助左衛門の女を娶(めと)り、四男二女を生む。伯仲叔(はくちゅうしゅく=兄弟)、皆、先歿(せんぼつ)す。
 季(すえ)又右衛門、嗣子(しし)と為り、二女畢(ことごとく)嫁(か)す。故(ゆえ)を以て翁、兼ねて農桑を勤む。
 翁、諸子における慈愛を備へ至る。而(しこう)して、叔謙(しゅくけん)天性、孝順、佚遊(いつゆう)を好まず。翁、最も之を愛す。
 安永庚子二月二十六日、謙病を以て卒す。終りに臨み、一絶(いちぜつ)を口占(こうせん)す。其の辞(ことば)に曰く、
 二十二年、夢裡(むり)の看(かん)、青々楊柳(せいせいようりゅう)霜を経て残る。
 従他(さもあればあれ)、換骨塵土(かんこつじんど)に委(い)すること。
 覚後天辺孤月寒(かくごてんぺんこげつさむ)し。
 翁、其の詩を請(しょう)ずる毎に、未だ嘗(かつ)て、痛哭哀働(つうこくあいどう)せぬことあらざん也。
 翁、初め大志を抱き、賎技(せんぎ)を屑(もののかず)とせず、而(しこう)して、遐邇(かじ=遠くや近くから)診(み)を請う者、履(り)恒(つね)に、戸外に盈(み)つ。翁、己(や)むを得ず、強(し)いて之に応ず。
 天明乙己の春、病に罹(かか)り四月二日卒す。享年六十有一、邑(むら)の善宗寺(現山口県新南陽市政所一丁目六番二二号)先塋(せんえい)の次に葬る。
 蓋(けだ)し、翁の医たるや、容悦(ようえつ)を権貴(けんき)に求めず、艱難(かんなん)を鰥寡(かんか)に避けず。 唯(ただ)其の疾(やまい)の憂、経験、頗(すこぶる)多し。若(も)し誤治者(ごじしゃ)有らば、沈思(ちんし)数日、其 の解(げ)を得て、而(しこう)して、投剤(とうざい)す。其の人命を重しとすることかくの如し。医中の君子と謂(い)う可 (べ)し。
 今、茲春(このはる)、嗣子(しし)、状を寄せ、余(よ)に謁(えつ)し、之を銘(めい)す。余、敢(あえ)て、辞を状畧(じ ょうりゃく)し拠らず、其の行事を叙す。これを繋(かか)げ以て銘す。匕(ひ此)に曰く、
 医師の良、宰相の賢、功業の是れ均(ひと)し、大志茲(これ)を遂(と)ぐ、匕剤(ひざい=匙や薬剤)政を為す、芳(ほう)を千春に遺す。
 天明丁未春三月
 長門、清末侍講(じこう)國島觀(かん)撰すス
   
  2−2 中山三屋
 
    
     国会図書館の近代デジタルライブラリーで、中山三屋の歌集『浮木廼亀』は閲覧可能。
  柴圭子著の『江戸時代の女たち、その生と愛』に三屋のことが詳しく紹介されている。
 
 母方の先祖の墓所は、周南市の善宗寺にある。墓地は、三段構成になっており、その中段に戸倉家、中山三屋の墓がある。中山三屋の歌碑も墓地にあり、記念式典なども実施されたようであるが、母の納骨の際に立ち寄った2000年は、深い夏草に埋もれていた。この戸倉の墓石のみ、末次の他の墓石と異なり、一回り大きく、観音開きの家の門のような形になっている。

 中山三屋は、幕末期の勤王家歌人であり、多くの略歴は、その33回忌追善歌集『浮木廼亀』の序文をもとに、生年、天保11年9月25日(1840年10月20日)、 没年、明治4年6月21日(1871年8月7日)としている。 戸倉泰輔と中山家の奥女中で歌人の室谷民子の娘といわれる。
 各地の志士、豪商たち約400名を記録した自筆の『人名覚』は、幕末の勤王運動資料として知られている。

 三屋に関しては、郷土史家、藤井善門氏(明治33年〜昭和50年)の原稿がある。
 藤井氏の原稿は、400字詰め原稿で33枚(伯父の書写した原稿枚数)である。歴史の転換期に活躍しながら世に知られない多くの志士と同様に、中山三屋も、明治維新で重要な役割を果たした女流志士であるにも関わらず、名も知られることがない。なお、藤井氏は、その原稿の中で、中山三屋に関する先人の研究者として徳山市如見の郷土史家、松村清路氏の名をあげている。以下は、藤井氏原稿の要旨である。

 三屋の父とされる戸倉泰輔は、小川の水を高いところに汲み上げる水車を作る技術者であって、農業を弟に譲り、水車技術を持って江戸に出て、幕臣や南部家に仕えてこの技術を生かしていった。南部家からは20人扶持を給せられている。富田政所の善甫家に水車の設計図が遺っている。
 善甫家も戸倉家の親族で、江戸中期の医者、原中の妻の実家同様に、代々、末次家との関わりも深い。善甫家に三屋の遺品なども残されているそうである。
 戸倉泰輔は、その後江戸から京都に上り、「ある公卿」に仕えたと記されている。このとき、京都で妻、室谷民子をめとり、その子が三屋であるとされている。
 しかし、名前を伏せた「ある公卿」の説明は、明治40年に編纂された三屋の歌集『浮木廼亀』の編纂者、三屋の一つ年上の矢嶋作郎によるものである。宮内省歌会所の所長、高崎正風や、その友人の矢嶋氏の立場でこの「公卿」の名を明示しない点から、藤井氏は、後に戸倉泰輔が戸倉姓を中山姓に変え、名も「将監忠道」とした経緯をふまえて、戸倉泰輔が仕えた公卿は、明治維新の中山大納言に間違いないだろうとしている。
 中山忠能卿には16人の子供があったが、京都所司代への届によると7人は夭折早世したことになっている。このうちの一人が三屋であって、仕えていた戸倉泰輔に養女として与え、尊皇倒幕活動に関与させたのではないかと推察されている。天保11年、中山三屋の出生後、戸倉氏は、中山姓を名乗り、職を辞して後、東山八瀬に隠居し、安政6年(1859年)9月30日に死去している。

 ちなみに、中山三屋の歌集の『浮木廼亀』のタイトルは、有名な仏教説話であり、容易でない出会いのたとえとされている。盲目の亀が大海の中にすんでいた。百年に一度だけ大海に底から水面に浮かび上がり、水面にただよい前後左右に揺れている一本の木の穴に入ろうとするという話である。浄土真宗親鸞会のホームページにおける盲亀浮木の説明では、「人身受け難し、今すでに受く」の喩え話として紹介している。生まれがたい人間に生まれることができてよかった。人間に生まれて今生きていることがどれほど貴重なものであるかを、釈迦が弟子、阿南に語った喩え話である。阿南が、この盲目の亀が木の穴に入れることは、億の億倍、兆の兆倍の年を経てもかなわないと思うと答えると、釈迦は、人間に生まれることは、それよりも難しい。大切にしなさいと諭す話である。

 中山三屋は、幼少の頃より、文学、詩歌、書画を好み、香川景恒翁の門に入っている。7歳の時に歌会(歌題「埋火」)において、大人に先んじて次の歌を詠み絶賛された。
 「山賊が朝霜しのぎこりし木の、寒さにもにぬ ぬやの埋火」
 長じて、太田恒蓮月尼、高畠式部女、税所敦子らと交わった。母は13歳の時、嘉永5年11月23日に死去している。14歳で出家(京都 曇華院)し、京都富小路蛸薬師に居住している。慶應3年正月9日、明治天皇が御年16歳をもって即位した。慶應3年春の京都嵐山花見の宴が催された。この宴は、高崎正風が故郷薩摩帰省の宴を兼ねており、参加者は八田知紀、小松廉、大久保利通、井上長秋等薩摩の志士である。この宴にて、三屋が詠める歌に次の歌がある。
 「うれしくも花のさかりにあひにけり これや浮木の亀の尾の山」
 慶應3年10月には大政奉還を見届け、28歳の時、五畿山陽九州の旅に出た。『浮木廼亀』の序文では、母の死を契機に出家し、旅に出たようにもとれる表現となっているが、実際には母の死から14年後、明治を迎えてからの旅立ちである。
 「ひとりのみ つれをはなれて 行く旅は かりのわかれも 音にぞ泣かるる」
 まず、文久3年8月に中山忠光天誅組に対する朝廷追討軍となった伊勢藤堂家を訪い、三屋の弟と推察されている忠光の誠忠を説き、賊名を削ぎ、元の官位に復するよう働きかけた。その後、藤堂家が建白書を出して運動した結果、中山忠光は、明治3年10月には元の官位に復し、深き思召しを以て正四位を贈られ、祭粢料三百両を下賜せられた。
 その後、防長だけでも62人を訪問している。著名人では、松陰の実兄、代官職、杉民治、揖取素彦、後の従二位勲一等男爵枢密顧問官、豪商、萩の熊谷三四郎義右、西市長正司の中野半左衛門景卿などがいる。熊谷、中野両家は親族で、熊谷氏は萩藩の武士、中野氏は長州藩と関わり深い豪商である。中野邸には、中山忠光卿も2回宿泊し、奇兵隊幹部の高杉晋作、桂小五郎、山県狂介、品川弥二郎等も来宿している。三屋は、明治3年9月21日に中野家を訪問し、同年11月18日まで三ヶ月間滞在(長州西市 中野半左衛門日記)している。出発に際し、田中周蔵が付人した。
 防府宮市山口の方を歴訪し、明治4年4月7日に宮市を出立し、9日に下関に着いている。11日下関より乗船し13日に崎陽(長崎)着、鹿島利兵衛宅に滞在している。その後、腸の病に罹り、周防富田への帰路、防府宮市の末松軍平邸で療養中に死亡している。明治4年6月21日死亡、享年32歳であった。遺骸は、富田の戸倉家へ送られ、富田の善宗寺の墓地に埋葬された。ただし、檀那寺は、南陽町(現、周南市)富田の称名寺である。称名寺の過去帳に「堀誉智玄大姉 明治4年6月21日、中山三屋」と記されている。1970年6月には三屋の百年祭が開催されている。
中山三屋の事績とその心情を伝えるために、その歌をいくつか紹介しておく。

 幕末憤慨の歌には、次のような歌がある。
  波風の あらきいそ間の 岩まくら そばだてかちに 世を渡るかな
  さりともと 思ふ心の おろか負い なり出でぬべき たのみならぬを
  水の上に うくちりよりも 軽き身の ながれもあえず 沈む はかなさ
  おのづから 思ふにたがふ 世のさまの わがいつはりと 成りぬべきかな
  海山の 千里をかけて はてもなく かぎりもしらぬ わが思いかな
  わが心 やすむまもなし 山賊が 身におふけなき なげきいるとて
  いかにせん またと来ぬ世に 又となき このまがごとの おりにある身を
  身一つの いくによそへて おふけなく 君がみよをも かこちける哉

 自らの身上についての歌には、次のような歌がある。
  山の井の 底に落ちたる かしの実の ひとりなげきに 沈むことかな
  世には とく捨てられし 身のあぢきなく などすてかてに 世を思ふらん
  水の上に 一ひら散りて うく花に 身をたぐへても ゆく旅路かな
  世の中に さちなきを身の 幸にして 月と花とにうかれ 暮らさん
  ながむれば 月さへぬるる あきのそら 身の浮雲の はるる よそなき
  世には身の ねがひたえにし 草の戸に 何をまつてふ 虫のなくらん
  世の中の 春しらぬ身の いかなれば 秋はたもとに つゆのおくらん

 西市長正司、中野家滞在中に記したものに、次の歌がある。
 山陰なる櫻の花を見て
 「おく山の谷間がくれのさくら花、あはれ見ばやさむ人しなければ かしの実の、ひとり咲いて ふくかぜに ひとりこそちれし。かすかに散りての後は、山川に浮ひなつさびたに 水にたぐひ出でつつ、うつせみの よにもあらはれ ちはやふる人にしらるる やまさくらはも。世にふれば、おなじたくひと山ざくら、花もこころにあわれとは見よ。よの人に まちをしまれぬ奥山の花ぞ 中々 心やすかる」
 この歌は、中山忠光卿を偲んだ歌とされている。世にあれば人々に知られる櫻も奥山にあって世に活動することもできず、山陰の櫻はあわれであると同情して見て欲しい。世の中の人に待ち惜しまれている奥山の花の心は おだやかではない。
 中山三屋の歌には、父母と切り離された生活の寂しさと悲しさ、直接会うことの多かった勤王の志士の人生の、政略に翻弄されるはかなさに対する祈りが満ちている。

 中山大納言の一族の人生もまた、中山三屋だけでなく波瀾に満ちている。
 特に、三屋が、明治になってから汚名を注ぐために努力した異母兄弟と思われる中山忠光とその子孫は波瀾万丈の人生を送っている。

<参考:中山忠光>

 中山忠光は、大納言中山忠能の三男(第五子)であり、1845年に生まれた。没年1864一年、享年19歳である。1858年、13歳の時、侍従となり、幼時、祐宮(明治天皇、生母は忠光の姉慶子)の遊び相手などもつとめている。
 文久3年(1863年)3月19日、18歳の時、尊懐の旗をかかげる長州に向かって出奔し、約三カ月間長州藩内に滞在し、その間に馬関海峡にくりひろげられた攘夷戦にも参戦した。文久3年8月、天誅(忠)組首領として大和に挙兵し、敗れて10月、再び長州に下った。以後、幕府の目を逃れながら、支藩の長府藩内の僻地を転々と潜伏し、翌元治元年(1864年)11月8日(日付に諸説あり)、田耕村杣地(豊北町)において暗殺され、19歳で死去した。
 その山中潜居の日々、藩の配慮で、6月頃から下関の商家恩他家の娘トミ(登美)が側女として仕えることになった。忠光の死後、登美は、慶応元年(1865年)5月10日、身を寄せていた長府城下の江尻半右衛門宅において忠光の子を出産し、伸子と名づけた。
 以後、母子の身を案じる人々の手によって保護を受け、明治3年3月、伸子6歳のとき、萩藩主毛利元徳のもとに養女として引きとられ、同年11月、中山家に迎えられた。
 成長した伸子は、19歳の4月、かつて正親町三条を名乗っていた名門華族の嵯峨公勝に嫁ぎ、忠光殉難から70年の歳月を経た昭和10年(1935年)4月には、下関市綾羅木にある父忠光の墓前に参っている。
 2年後の昭和12年4月には、伸子の孫、嵯峨実勝と尚子の長女浩が、23歳の春、満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟溥傑に嫁がされた。伸子は、この孫の身を案じつつ昭和25年3月、85歳で死去している。一方、戦後、浩は、溥傑と別れさせられ、大陸の地を流転後、帰国した。昭和32年には、その子、19歳の長女慧生が学習院大の級友と伊豆、天城山で心中している。その後、浩は、昭和36年には夫と再会して中国北京市に居住し、昭和62年7月20日に、73歳で死去している。