マンハッタン計画  
 背景 ・核兵器実現の可能性が高まり、ヒトラーによる核開発の危険性を心配した科学者が、関係政府への働きかけによるナチスに先行する核兵器開発を促す活動を行った。
 契機1  アインシュタイン
(シラード)の手紙

 1939年7月16日

・ウィグナーとシラードがアインシュタインにベルギー、エリザベート王太后への手紙作成を依頼
・アインシュタインは、王太后宛ではなく、知人のベルギー内閣閣僚への手紙を書くことで同意
・草稿は、アインシュタインがドイツ語で口述。シラードが英訳
(リチャード・ローズ、上、p535)
 1939年7月19日   ・シラードとテラーが、フランクリン・ルーズベルト演説原稿起案者、経済評論家アレクサンダー・ザックスと面会、ルーズベルト大統領へ手紙を渡すことに同意
・シラードが、ルーズベルト大統領宛に手紙を修正し、アインシュタインに送付
 1939年7月   ・シラードが再度アインシュタインと会い、その後ザックスと会って相談した結果、シラードが、政府と科学者の仲介の役割を明記した長い文案を作成
 1939年8月2日   ・シラードが長短2案の英訳文案をアインシュタインに送付
 1939年8月9日   ・アインシュタインが手紙に署名(8月2日付)。シラードに送付 
・アインシュタインは長い方の文案を推奨
 1939年9月1日    ・ドイツがポーランド侵攻。ザックスはルーズベルトへ手紙を渡すタイミングを失する
 1939年10月11日   ・ザックスがルーズベルト大統領と面会。
・ルーズベルトの副官、エドウィン・M・ワトソン将軍が議題審査
・ザックスはアインシュタインの手紙を読む代わりにメモ(800字の要約:核の利用による電力生産、医療用利用及び爆弾の可能性、政府と科学者の間の連絡委員会設置の必要性等)を作成して説明。ルーズベルト大統領はウラン委員会設置による検討を約束 
 1939年10月21日 ウラン諮問委員会
第1回会合
(ワシントン商務省)
・委員会メンバー
・委員長 国立標準局長ライマン・ブリッグズ及び助手
・陸軍中佐 キース・F・アダムソン
・海軍中佐 ギルバート・C・フーバー
・ザクス、シラード、ウィグナー、テラー、ロバーツ、合計9名
 1939年11月1日 ウラン諮問委員会
大統領宛報告書
・「潜水艦の連続的動力源としての」活用可能性に言及した程度
・爆弾の可能性に関する「徹底的な調査のための適切な支援」として黒鉛の減速材としての有効性を確かめる実験に必要な6000ドルをフェルミのグループへ提供する旨の勧告(純粋黒鉛の供給)を記載。報告書は、大統領ファイルに収納。
・その後、政府の動きなし。ただし、フェルミのいるコロンビア大等での核分裂研究は平行して推進。
 1940年3月7日 ザックス宛督促 ・6000ドル供与の動きがないためシラードがアインシュタインへ再度の手紙執筆を依頼。アインシュタインはザックス宛の手紙を作成、ザックスを介して大統領に進言(黒鉛による連鎖反応に関する論文)
(英国の動向)    
 1940年4月10日 英国MAUD委員会(トムソン委員会)開催(非公式会合) ・フリッシュ及びパイエルスが、核兵器開発可能性に関する2つの覚書を作成し、オックスフォードのヘンリー・トマス・ティザード(英国レーダー開発推進者、防空科学者調査委員会の文民議長)に送付。
・ティザードが委員会設置による検討を提案
・小委員会議長:インペリアル・カレッジ物理学者G・P・トムソン
 1940年4月24日 英国MAUD委員会(トムソン委員会)開催 ・チャドウィックが、フリッシュ及びパイエルスの研究引き受けに同意
(チャドウィックは、リバプールの英国初のサイクロトロンを使って高速中性子分裂の可能性を研究中)
     
 1940年4月27日 ウラン諮問委員会
第2回会合 
・フェルミ、シラードに6000ドル供与
・研究内容:黒鉛が中性子を吸収する度合いを示す捕獲断面積を計測。黒鉛を減速材とした天然ウランでの制御された連鎖反応の可能性を立証
 1940年6月12日 NDRC設立 ・ヴァネヴァー・ブッシュ(カーネギー研究所長)、ハリー・ロイド・ホプキンス(商務長官、大統領補佐官)に働きかけ、国防研究協議会(NDRC)設立案作成。1940年6月12日、大統領に面会、NDRC設立の了解を得る。
・NDRCがウラン委員会を吸収(核兵器開発の不可能性立証に関心)
 1940年7月1日 ウラン諮問委員会
ブリッグス報告書提出
 ・ウラン委員会閉鎖にあたってブリッグスはブッシュ宛に報告書提出:14万ドルの予算要求(4万ドル:断面積等の研究、10万ドル:フェルミのウラン・黒鉛実験用)
 軍は独自に同位体分離研究に10万ドルを予定していたので、ブッシュは、4万ドルのみ割り当てた。
 1940年11月1日 NDRCとコロンビア大契約 ・NDRCとの契約で、4万ドルがコロンビア大学フェルミグループに供与(物理定数測定の研究資金)。研究グループ(コロンビア大給与支払簿)にシラードの名前が登場
(英国の動向)    
 1940年12月 英国MAUD委員会
サイモン報告書
 毎日 1 キログラムのウラン235を産出する工場がおよそ 500 万ポンドの経費で可能である
 1941年3月 ウランの臨界質量値の精緻化 ウランの臨界質量値の精緻化
アメリカで連鎖反応研究に携わっていたカーネギー研究所地磁気研究部のメール・チューヴ (Merle Tuve) らがウラン235の高速中性子による分裂断面積の実測値をイギリスに伝えた。フリッシュとパイエルスがこの新たな値から得られた爆弾に必要なウラン235の量は、約8 kg、もし適当な反射的タンパー(覆い)で周りを包めば 4kg 強となることがわかった。
 契機2  ローレンスの要請  
 1941年3月17日 ローレンス要請による
核兵器開発可能性の検討(1/6)
・カルフォルニア大、アーネスト・ローレンス、MITでカール・コンプトンとアルフレッド・ルーミスにドイツによる核爆弾開発の危険性を訴え。
 1941年3月19日 ローレンス要請による
核兵器開発可能性の検討(2/6) 
・ニューヨークで、ローレンスからブッシュへ依頼。ブッシュはウラン問題を封じ込めた。
 1941年4月中旬  ローレンス要請による
核兵器開発可能性の検討(3/6)
・ブッシュ、米国科学アカデミー(NAS)総裁、フランク・B・ジュウェットに手紙を書き、ウラン問題の裁定を依頼、ブッシュ、ブリッグスとも相談。
 1941年4月中旬  ローレンス要請による
核兵器開発可能性の検討(4/6)
・米国科学アカデミー定例会議(ワシントン)、再審査グループの人選実施(アーサー・コンプトン(カール・コンプトンの弟)主宰、ローレンス、ウイリアム・D・クーリッジ参加)
 1941年5月5日 ローレンス要請による
核兵器開発可能性の検討(5/6) 
・米国科学アカデミー再審査委員会、ワシントンで会合の後、ケンブリッジで意見聴取の会合実施
 1941年5月17日 ローレンス要請による
核兵器開発可能性の検討(6/)
コンプトン報告書
・シカゴ大物理学教授アーサー・コンプトン報告書(3年程度で核兵器開発の可能性有)作成、ジュウェットに提出。ジュウェットはブッシュにも回覧。ブッシュは核兵器開発に依然懐疑的。
 1941年6月28日  OSRD設立
(Exective Order 8807)
・NDRCには技術開発遂行権限がないため、ブッシュは新規の科学研究開発庁(OSRD)設立を大統領に提案。ブッシュがOSRD長官に移行、NDRCはコナントに継承依頼。OSRDは1941年7月1日に設立。
   OSRD、S-1設立 ・ブリッグスのウラン委員会は、ハーバード大学長、ジェームズ・ブライアント・コナントの指揮下で核分裂研究継続。科学研究開発局 (Office of Scientific Research and Development, OSRD) の S-1 ウラン委員会 (S-1 ウラニウム委員会、S-1 Uranium Committee, S-1 は第1課 Section One の意) に継承
 1941年6月22日  ヒトラー、ソ連侵攻  
 契機3(英国)  英国MAUD委員会報告  
 1941年7月15日  英国MAUD委員会報告 ・ウラン爆弾が実現可能と結論
・開発費用・期間の明示:
 爆弾に含まれるウラン材料は 25 ポンド(11 kg)ほどとなり、破壊力は TNT 火薬 1.8 キロトンに相当し、大量の放射性降下物を生成するとされた。 また1943年末には爆弾製作の資材が提供可能となるとした。
・ブッシュ、ヘンリー・ウォーレス副大統領に伝達
 1941年8月  英国、米国に対し核開発を要請 ・英国MAUD委員会メンバー、マーク・オリファント(委員会報告書の概要版を作成)が米国訪問。
 米国による開発の必要性を関係者に説得
 1941年10月3日  米国政府が英国MAUD委員会報告を入手 ・アメリカ政府はイギリスの MAUD 委員会からウラン濃縮とそれによるウラン爆弾が技術的に可能だという報告を受け取った。
・トムソンが10月3日にコナントに渡し、10月9日に、ブッシュは、NAS第三報告をまたずに、大統領に直接届けた。
・報告内容について、大統領はヘンリー・ウォーレス、ブッシュ会合。
・大統領は、核兵器開発政策協議のための小さなグループメンバーを設定(後に最高政策集団と呼ばれたもの)):ウォーレス副大統領、ヘンリー・L・スチムソン陸軍長官、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀長、ブッシュ及びコナント
・ブッシュとコナントは、アーサー・コンプトンに第三NAS報告を要請
 1941年10月21日  NAS開催
(スケネクタディー)
・アーサー・コンプトンによる事前調査(サミュエル・アリソン、コロンビア大フェルミによるU235臨界量計算:130kg、ハロルド・ユーリーの同位体分離、プリンストンのユージン・ウィグナーによる分裂方式の相違点説明、バークレーのグレーン・シーボーグによるウランから元素94を分離するための大規模遠隔操作技術)と報告書草稿準備
・ローレンスが、オッペンハイマーの同席を要請し、参加を了承された(政府は計画の守秘性確保のため関係者が部外者と核兵器開発に関する情報交換を行うことを制約していたが、情報流出を最も心配されていた科学者はローレンスだったようである。オッペンハイマーに話したこと自体も叱責の理由になるが、この際には了承された。)
・コンプトンは、核兵器開発のための開発期間設定及び経費概算が必須とし、3〜5年、数億ドルの数値を提案したが、参加技術者は十分なデータが不足しているため評価できなかった(当時の技術者の説明は、爆弾の破壊性の推計のみに集中)。
 1941年11月1日  NAS第三報告書提出 ・コンプトン報告(U235を用いた爆発的分裂反応の可能性の考察)をブッシュとジュウェットに提出。英国の調査結果を独自に照合。ブリッグスの委員会とは別に、「開発を指揮する専任指揮官のもとでの新しいグループ」の組織化を提案
 1941年11月27日  NAS第三報告書大統領に提出 ・ブッシュがNAS第三報告書を大統領に届けた。ルーズベルトは2ヶ月後に簡単なメモ(これは君自身の金庫にしまっておくのが一番よかろう)を付けて返した。
・ブッシュとコナントは12月初旬にウラン委員会の組織再編を実施
 1941年12月16日(土)  ブッシュ、ワシントン会議招集 ・コンプトンによる研究開発促進(S-1による核兵器開発)
契機4
 真珠湾攻撃  
 1941年12月17日(日)  真珠湾攻撃 ・4日後、ドイツが米国に宣戦布告
 1941年12月18日  S−1会合  S−1計画拡張・実験場所の集約を検討、研究から開発への移行
 1941年12月20日  コンプトン覚書
(スケジュール設定)
・プルトニウム生産が戦局に影響を与えることができるようにするためのスケジュール
(S-1メンバー向け)
 1942年6月1日まで 連鎖反応の条件についての知見
 1942年10月1日まで 連鎖反応の生産
 1943年10月1日まで 銅(プルトニウムの非公式暗号名)生産用反応を用いる試験工場
 1944年12月31日まで 使用可能な量の銅(同上の意味)の調達
・向こう6ヶ月間の予算見積もり
 材料費59万ドル、賃金等61.8万ドル
 1942年1月24日  S-1第三回会合 ・コンプトン指揮下の、S-1による核兵器開発プロジェクトの推進
(1月中に三回会合開催)
 コンプトンがインフルエンザにかかっていたので自宅病床から指示
懸案事項:各担当グループ(コロンビア、プリンストン、シカゴ等)の推進状況に不調和や重複が見られるため、連鎖反応とプルトニウム化学の開発の仕事を一ヶ所に集中する必要(偽装名OSRD冶金研究所設立)があり、その調整を実施。
 1942年3月9日 ブッシュのルーズベルト宛の手紙 ブッシュやルーズベルトはドイツの核兵器開発に関心なし
核兵器の攻撃的優位性確保への関心
・アーネスト・ローレンスの電磁分離プラント計画への関心:1943年夏までに生産可能
注:毎月1個の爆弾を作るのに必要なU235の生産は
 遠心分離プラント(経費2千万ドル)の場合:1943年12月までに完成可能
 気体拡散プラントの場合:1944年末までに引き渡し可能
ルーズベルトは、この手紙に2日後に回答:開発までの時間が重要
 1942年4月19日 グレン・シーボーグ(カルフォルニア、バークレー)のシカゴ到着  ・使命:U238からのプルトニウム抽出
 1942年4月23日
 及び4月24日
シカゴ、冶金研究所会議 ・提案された7つの方法すべての調査
 1942年5月  シカゴ・パイル1号(CP−1)  フェルミ、実際規模の連鎖反応パイルの設計開始
 1942年5月23日  会合  試験工場・工業的技術段階で実施すべき方法の検討
・遠心分離
・気体障壁拡散
・電磁的方法
・黒鉛または重水
・プルトニウム・パイルの方法
5つの方法の同時推進を決定
 1942年6月17日 ブッシュのルーズベルト宛状況報告 ・組織再編提案:
 陸軍による工場建設と経営
 OSRDと陸軍による開発及び最終生産
ルーズベルトは署名了承し、ただちに返送
同日、工兵監は、ジェームズ・C・マーシャル大佐にワシントン出頭命令
・ルーズベルトは、ブッシュ提案の元のS-1部局解体、S-1執行委員会(コナント議長)への再編に同意。核兵器開発はOSRDと米軍の共同事業に移行。
・陸軍所管下「陸軍マンハッタン工兵管区」での開発に移行
・マーシャルは爆弾計画請負人にボストンの工務店ストーン&ウェブスター社を選定
 1942年6月27日 コンプトン、冶金研究所再編に関する会合  出席者:アリソン、フェルミ、シーボーグ、シラード、テラー、ウィグナー、ジン等
コンプトンは、機密保持の必要性強調、
学者グループは、工事請負人との共同作業への懸念表明、「陸軍に吸収される」
 1942年7月27日 UNH(硝酸ウラン六水化物)がセントルイスに到着  
 1942年7月  水素爆弾開発の開始  
 1942年8月13日    ・「陸軍マンハッタン工兵管区」設立命令
ただし、S-1と軍の間の調整案件の仲裁方法欠如
 1942年8月20日  シカゴ冶金研究所、
シーボルトグループ
 純粋プルトニウム元素94の分離成功
 1942年8月 S-1会合に関するコナントメモ
覚書「爆弾事情」 
分裂爆弾の破壊エネルギーは前の計算の150倍だが、臨界量は前のU235の推定量30kgの6倍が必要 
 1942年8月29日  ブッシュが陸軍長官に状況報告書提出  
 1942年9月 科学者と軍の軋轢悪化  陸軍工兵隊管理下へシフト 
ボストンの工務店ストーン&ウェブスター社解約
 1942年9月15日〜11月15日  CP−1 フェルミ、スタッグ競技場西スタンドに16基の指数パイルを建設
(黒鉛と酸化ウランと金属の純度測定用) 
 1942年9月17日  
・責任者レズリー・リチャード・グローヴス大佐(6日後に准将に昇進)着任
 ・グローヴス大佐はペンタゴン建設責任者等の実績有り
  ・2日後に用地取得へ対応。
  ・開発資材確保に最高の優先順位付与
  ・「陸軍マンハッタン工兵管区」のニューヨークからワシントンへの移転
 ・補佐官 ケネス・D・二コルス大佐
 1942年9月18日    ・グローヴス大佐、65%酸化ウラン(ベルギー領コンゴ産)の鉱石取得
(1940年ニューヨークに輸入済)
1942年9月19日    ・グローヴス大佐、マンハッタン工兵管区に第一優先権AAAを与えることを兵器生産庁長官ドナルド・ネルソンに承諾させる。
 1942年9月19日 ウラン精製工場(サイトX)
土地取得承認
グローヴス准将は、ウラン精製工場と計画の司令部を設置するために、テネシー州東部クリンチ川沿いのオークリッジの土地を取得した。
 取得土地面積 59,000エーカー (24,000 ha)
 1エーカーにつき47ドル、合計260万ドル
 土地の取得によって影響を受けた家族は1,000以上
 原爆製造に必要なウラン精製工場建設
 土地の取得費用、350万ドル:
 9月29日にアメリカ合衆国陸軍次官ロバート・ポーター・パターソン承認
 追加の3,000エーカー (1,200 ha)も後に取得
注:1945年5月 雇用者数
クリントン・エンジニア・ワークス(CEW)、82000人
ローン・アンダーソン 10,000人
後にオークリッジ国立研究所となった。
 1942年9月23日   ・「陸軍マンハッタン工兵管区」の指揮官はグローヴス准将に移行
 1942年10月   ・ルーズベルトはアメリカ国防研究委員会(NDRC)議長のヴァネヴァー・ブッシュと副大統領ヘンリー・A・ウォレスとのミーティングで、核兵器開発プロジェクトを承認した。
・ブッシュ、軍事政策委員会の設立
 構成員:陸海軍及び科学者
 科学者の核開発政策決定への関与を確保
・1942年夏から秋にかけての懸案事項
 最優先事項:同位元素(アイソトープ)分離方式の確定(4方式からの選択)
 1942年末までに最短時間での核開発スケジュールの決定が必要(グローヴス准将)
 研究から核兵器の開発・生産への移行が要請されていた
 1942年10月11日   ・ルーズベルト、イギリスとの協力体制確保のため、イギリス首相ウィンストン・チャーチル宛書簡送付。
 1942年11月  プルトニウム生産準備 ・グローヴス准将、デラウェア化学薬品・爆薬製造責任者であるデュポン・ド・ヌムールに対して、プルトニウム生産パイルの製作及び運転の仕事をストーン&ウェブスター社の下請け契約で実施させることを承知させた。デュポンは、操業上の物的危険、核物理学分野における会社の未経験、生産工程の可能性に関する多くの疑問、証明された理論の不足、基本的な技術設計データの完全な欠如等を理由に反対した。しかし11月第2週までに不承不承で生産を受け入れた。
・その後、ストーン&ウェブスター社の建設労働者がストライキに入った。
 1942年11月12日  軍事政策委員会会合  
 1942年11月14日  S-1執行委員会会合   
 1942年11月16日  人工核反応炉、パイルNo1建設 フェルミ、建設工事開始(シカゴ大学)、12月1日工事完了、
350トンの黒鉛、36.6トンの酸化ウラン、0.562トンの金属ウラン
生産・建築費約100万ドル
 1942年11月 ロスアラモス研究所設置
(サイトY)
ロスアラモス
科学者達のリーダー:物理学者ロバート・オッペンハイマー
オッペンハイマーの提案で研究所はニューメキシコ州ロスアラモス(後のロスアラモス国立研究所)に置かれることが1942年11月に決定した。
彼を研究所長、
ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当)、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファインマンなど若手の研究者やハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生などが集められた。当時はコンピュータが実用化されていなかったために、計算だけを任務とする数学に優秀な高校生も集められた。その他、アーサー・コンプトン、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス、ジョン・ホイーラー、グレン・シーボーグなどが協力した。
 1942年12月2日    フェルミ、人類が初めて、原子核から解放されるエネルギーを制御することに成功:
パイルを2分の1ワットで4.5分間走らせた(午後3時53分)、1時間半制御せずにおけば、連鎖反応は、百万キロワットになる数値(実験関係者が溶融する状態)
 1943年1月末 ハンフォード技術工場 
(サイトW)

ハンフォード技術工場(Hanford Engineer Works: HEW)
 1942年12月14日、グローヴスはオークリッジの不適切性を指摘。
 プルトニウムの生産場所としては、オークリッジは不適切であった。オークリッジは人口密集地であるノックスヴィルに近く、予期しない事故が起こった際に市街地へ放射性物質が降り注ぐ危険があったためである。
グローヴズ准将は、建設監督となるデュポン社の民間技術者を雇用し、プルトニウム工場用地を管理する将校と一緒に土地の査定を行わせた。 プルトニウムの生産には多量の水と電気が必要とされるため、ワシントン州南央コロンビア川沿いの盆地が候補に上がった。1943年1月末に、そこの20万ヘクタールが510万ドルで取得された。
 工場建設労働者 5000人
 陸軍による地主に対しての農作物に対する補償額が争点となり、土地の取得計画は難航した。一部の土地は終戦後のマンハッタン計画終了までに完了しなかった。   1943年4月工場稼働開始した。
 労働者25000人
計画に参加した組織等:ロスアラモスの他にもシカゴ大学冶金研究所やカリフォルニア大学バークレー校など多くの施設がマンハッタン計画に参加し、米国以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加している。
デュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の大企業も参画している。この計画に対しては多額の資金(当時の額面で19億ドル)が投入された。
開発
マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。別の部署の研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみというグローヴスの方針には自由な研究を尊ぶ科学者からの反発も強かった。ウラン濃縮には電磁濃縮法が使用された。当時、戦略物資として銅の使用が制限されていたので国立銀行から銀を借りて電磁石のコイル用線材に用いた。銀は銅に比べ電気抵抗が少なく、多少たりとも発生磁力向上と消費電力削減に貢献した。

 1943年    欧州大陸での空爆は、精密攻撃から都市全体の焼夷弾による地域攻撃(国民の戦闘意欲の志気を低下させる)を正当化するようになっていた→原爆による無差別爆撃を正当化する方向へ転換していた:1943年7月24日ゴモラ作戦によるハンブルグ絨毯爆撃
 1943年3月15日  オッペンハイマー、サンタフェへ引越  
 1943年4月  ロスアラモス導入講義  ロバート・サーバーの講義録をもとにコンドン副所長が「ロスアラモス教本」作成、24頁のガリ版刷り教本:原子爆弾を作る最初の実験所の計画を明示
目的:核分裂を起こす物質中の高速中性子連鎖反応によりエネルギーが解放されるという爆弾の形での実用的な軍事兵器を作ること。
1kgのU235は、2万トンのTNTに等しい。
 1943年5月10日  ルイス委員会報告  ロスアラモス再審査委員会(議長ルイス)ロスアラモス実験所の核物理学研究計画を承認
 1943年8月13日  原爆模型の最初の落下テスト  ダールグレン海軍実験場、TBF航空機利用(失敗)
 1943年10月    フォン・ノイマンとテラー、高速爆縮の有効性をオッペンハイマーに報告
     1943年〜44年 シラードとグローヴスとの対立激化
 1944年3月3日   カルフォルニア ムロック陸軍航空隊基地で偽装原子爆弾の投下実験(失敗)
 1944年3月    実際規模での爆縮兵器のテスト計画開始
 1944年9月26日    原子パイル準備完了、ハンフォードでのプルトニウム量産開始
1944年12月17日 Dパイル 2004本の充填で臨海状態になった。
1944年12月28日 Bパイルも同様に
グローヴスは、1945年後半には18個の5kgプルトニウム爆弾がもてると報告
 1944年〜45年 爆縮(光学)レンズ開発   
 1944年〜45年
 イニシエーター(反応開始装置)の開発  
 1944年11月1日    最初のB−29東京上空偵察
 1944年11月24日    最初のB−29東京空襲のためサイパン島離陸
 1945年3月  フランクレポート 連合国によりドイツが原爆を開発していない確証が得られると、ジェイムス・フランクやレオ・シラードらは、フランクレポートの提出など、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動を行った。
 1945年4月12日    ルーズベルト大統領脳内出血のため死去(副大統領トルーマン)
 1945年春    原爆投下の標的選定
 1945年5月8日    欧州戦争終結
 1945年7月16日  トリニティ実験 アメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点にあるアラモゴード砂漠のホワイトサンズ射爆場において人類史上初の核実験「トリニティテスト」が実施された。
爆発実験に使用された人類最初の原子爆弾はガジェットというコードネームをつけられ、爆縮レンズを用いたインプロージョン方式のテストを目的としたものだった。
長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」と同様の構造をしていたが、ファットマンのように空中からの投下ではなく、鉄製のタワーの上に備え付けられた状態で爆発した。
ファットマンおよび、広島に投下されたリトルボーイは、このガジェットと平行して製造された。 
 1945年8月6日  原爆広島に投下  
 1945年8月9日  原爆長崎に投下  
     マンハッタン計画の費用。1945年12月31日まで
場所      費用 (1945年(米ドル)) 費用 (2011年現在の貨幣価値換算(米ドル)
オークリッジ       1,188,352,000ドル           145億ドル
ハンフォード       390,124,000ドル              47.6億ドル
特別作戦物資       103,369,000ドル              12.6億ドル
ロスアラモス       $74,055,000        9億ドル
研究開発              69,681,000ドル  8.5億ドル
管理       37,255,000ドル  4.5億ドル
重水炉    26,768,000ドル  3.27億ドル
計           1,889,604,000ドル           230億ドル
1945年10月までのマンハッタン計画の費用は、18億4500万ドルであり、
1947年1月1日のAECの試算によると21億9100万ドルだった。
資金の90%以上がプラント建設と核分裂物質の生産のために使われ、
兵器の開発と生産には費用の10%以下しか使われなかった[25]。
1945年までにマンハッタン計画によって開発された4つの原子爆弾(トリニティのガジェット、リトルボーイ、ファットマンと使用されなかった1つ)の、1つあたりの平均製造費用は5億ドル(当時の貨幣価値)。
マンハッタン計画の1945年までの総費用は、同時期の合衆国の小火器生産額との比較では90%、戦車の生産費の34%。
     資料
リチャード・ローズ (神沼二真、渋谷泰一訳) 『原子爆弾の誕生』(上/下) 1993年、啓学出版; 1995年、紀伊國屋書店、ISBN 4314007109(上巻)、ISBN 4314007117(下巻); Richard Rhodes, The Making of the Atomic Bomb, 1987, Simon & Schuster